会見を値踏みする「空気」

2016.09.05

毎日暑い日が続いています。

街頭演説での日差しも眩しく、今年は例年以上に真っ黒に日焼けしました。

こんにちは、げんまけんたろうです。

 

先日は、本当に痛ましく、また目を疑いたくなるようなニュースがありました。男性俳優の容疑者が強姦致傷の疑いで逮捕。被害にあわれた女性のことを考えると、放置することのできない許されざる事件です。

 

その後、母親である女優が謝罪会見をした様子がワイドショーやニュースを賑わせ、ネットでもこのニュースで持ちきりでしたが、私はこの謝罪会見に大きな違和感を感じました。

もちろん、母親である女優さんは”息子がとんでもないことをしてしまった””本当に申し訳ない”という思いで会見をされたのだろうし、その気持ちは人の親として私もよくわかります。皆様に申し訳ないと思うのは当然の気持ちです。

しかし、どうしても会見を取り巻くマスコミやテレビの前の視聴者が、「親として謝るのかどうか」「悪いと思っているのかどうか」とチェックし吊るしあげるかのような「空気」を感じてしかたがないのです。

 

誰がなにをもって親に出てこいと求めるのか


まず、そもそも成人した一人の大人の犯した罪に、親が責任を負うべきなのかという議論があります。

上述したように親の気持ちとしてはもちろん申し訳ないという思いはあるでしょうが、責任はその罪を犯した個人にあり、周囲が親に責任を求めるのは日本特有の感覚で違和感を感じます。欧米では、なにか罪を犯した時に親が出てきて謝罪することはほとんどありません。というよりも、親に出てこい謝罪しろ、などという「空気」はありません。親と子の繋がりや絆が深いのはいいことですが、それに便乗して周囲が強要する「空気」はどうかと思います。

 

また、それ以上に違和感を感じるのは、最近は会見の出来栄えをあれこれ論評し、「誠意が感じられたかどうか」とか「いい謝罪会見だったかどうか」とか、会見に点数をつけるかのような変な「空気」です。

ベッキーさんあたりの会見からこの空気が始まったのでしょうか。なにか会見があるとコメンテーターが良かっただの悪かっただの批評している姿が見受けられるようになりました。

 

日本人が徹底的に弱い「空気」


日本人は「空気」に弱いと言われています。「空気がよめないね」とか「空気を読んで行動しろよ」などと日常生活でもよく耳にします。

名著「失敗の本質」でも、日本人は一つの目標が設定されると一致団結して立ち向かう強さがあるが、その強さ故に設定した目標自体を揺るがすような異なる意見は徹底的に排除する特性があると描写されています。

 

空気を感じることは大切なことでもあります。しかし時にその空気がどんどん肥大化して、取り返しがつかないところまで言ってしまう危険性もあるということを、私達は理解していなくてはなりません。私自身、ある方からのご指導で「空気に敏感でありながら、空気に左右されない強さを持ちなさい」と教えていただきました。これは政治家としてのアドバイスではありましたが、生き方としても通じるところがあるのではないかと思います。

今回の件も含め、蔓延する空気の背後に、そもそもそうした会見を報道する意味は何なのか、それを見る視聴者はどう受け止めるべきなのか、そういったことも考えなくてはいけないと感じます。

 

それでは、また。

 

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源馬謙太郎
源馬謙太郎(げんまけんたろう)プロフィール
維新の党静岡第8選挙区支部長・元静岡県議会議員(2期)。

1972年浜松市生まれ。成蹊大学卒、Centre College卒後、American Univ. 大学院にて国際平和と紛争解決学修士号取得。帰国後、小型武器問題専門家としてカンボジアでプロジェクトを立ち上げ12,000丁の武器を回収。

松下政経塾を経て後静岡県議会議員を2期務めた後衆議院総選挙に立候補。次点で惜敗。比例復活まであと270票でした。引き続き国政目指して政治活動中。